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【第3回】京都大学大学院文学研究科哲学専修教授 出口康夫 「わたし」のしあわせと「われわれ」のしあわせ

「わたし」のしあわせと「われわれ」のしあわせ

「価値提案型」哲学が作る、幸福と相互理解の概念マップ

—哲学のミッション—

(廣瀬) 最初に出口先生のところにお伺いしたとき、7割方断られるものと覚悟していたんですが、話をはじめて40分くらいしたところで「いいですよ」とおっしゃったので、「え?」と思いまして。あのときどういうお気持ちで了承されたのか、まだ腑に落ちないところがあるのですが。

(出口) では、わたしの方から、なぜこういう共同研究をさせていただいているのか、お話をさせていただきます。
 哲学とは何か。ひとことで言いますと、わたしは、「価値の提案」であると考えています。わたし自身、研究を始めた頃は、哲学を、むしろ、世の中で大手を振って通用しているものの考え方や、さまざまな「権威」の正体を暴く知的作業だと考えていました。ですが、最初、西洋近世哲学を学び、それから数理哲学をやり、さらにアジアや日本の思想を研究するうちに、哲学のミッションは、そういった「正体暴き」や「概念の交通整理」に加え、積極的な「価値の提案」にもあると思うようになりました。
 廣瀬さんが見てくださったYouTubeでの公開講義も、そのような考えにもとづいて行ったものです。2020年、2022年と2シーズンにわたる講義では、単に過去の哲学の紹介にとどまらず、コロナ禍での社会のあり方、人間のあり方について問い、新たな価値をポジティブに提案することを試みました。
 では、この「価値の提案」は、誰に対してのものなのか。やはりそれは「社会」なんですね。暗闇で「ヤッホー!」と言っても意味がない。虚空に向かってではなく、現実の社会に向かって、現状を踏まえて、新たな価値の提案をしていく。それこそが哲学の使命、役割だとちょうど思っていたところでした。


—ポジティブなターンへ—

(出口) 今回の共同研究では「しあわせ」や「ウェルビーイング」を扱っています。哲学では「「しあわせ」とは何か」を問う幸福論は、古代以来の大きなテーマでした。とはいえ、哲学的幸福論は、20世紀の最初ぐらいまではいろいろ議論されていましたが、その後、あまり議論されなくなっていたように思います。
 哲学のあり方じたいが、20世紀の半ば以降は、例えば、新たな「幸福」観といった価値のシステムを社会に対して提案するのではなく、大きな問題からはあえて身を引いて、細かいテーマに対して問いを設定し、それに対して技術的、工学的に答えを与えていくというスタイルへと転換していったと思います。カール・ポパーが「ピースミールエンジニアリング」と名づけたあり方、さらに言えば、トマス・クーンが科学に関して「通常科学」、「ノーマルサイエンス」と呼んだあり方が、哲学にも広まったように感じます。
 もちろん一方で、社会に積極的にコミットしようとする哲学や思想の流れもありました。そういった流れは、しばしば「クリティカル・セオリー(批判理論)」とも呼ばれてきました。しかし、批判、クリティシズムというのは、本来は肯定的な提案を行う準備作業という意味合いを持つにもかかわらず、「批判理論」の中には、そこまでには至らず、単に消極的で懐疑的な段階で終わってしまっていたケースが、まま見られたのではないかと思います。
 20世紀後半の哲学におけるこれら2つのトレンド、すなわち通常科学化というトレンド、そして批判に過剰に特化するトレンド、その両方に欠けていたのは積極的な提案を試みる姿勢だと思います。21世紀も第二四半世紀に入りつつある今日では、このような積極姿勢への転換、「ポジティブ・ターン」が求められているのではないか。そのように考えていたところに、廣瀬さんから共同研究のお話をいただき、社会への価値提案という方向性と合致するものだったので、あっさりと「いいですね」と答えたのだろうと思います。

(廣瀬) なるほど、ありがとうございます。

—現場で哲学する—

(出口) さらに、共同研究を受けさせて頂くにあたっては、もうひとつ別の理由もありました。哲学というのは、一つの分野や文脈にとどまるのではなく、複数の領域を見渡す広い視野を持たねばなりません。だから、どうしても話が大きくなるし、また抽象的にもなります。
 もちろん、抽象的であるということは、必ずしも悪いことばかりではありません。広く鳥瞰的な視野を得るために、われわれは地面からジャンプしなければなりません。その場合、話の抽象度は当然上がります。議論の抽象度を上げることで、我々は、その議論の適用範囲を広げることができるのです。哲学における議論の抽象化とは、抽象のための抽象ではなく、議論の間口を広げるためのものなのです。
 とはいえ、抽象度を上げるばかりでは、話が空回りする危険性も高くなります。そうならないためには、常に具体的なレベルへと話を戻してく必要があります。哲学は、抽象に向けての垂直方向のジャンプと、具体例に即した水平的な議論展開を、つねに両方心がけねばならないのです。
 ですので、新たな価値を提案する際にも、その価値について抽象的な思考を巡らせるだけでなく、何らかの社会の現場に即した議論展開をも行なわねばならない。その意味でも、廣瀬さんのように、投資や金融という経済の「現場」で活動を続けてこられた方との対話を通じて、わたし自身の考えも鍛え上げていくべきだと思ったのです。


—橋渡しをすることの重要性—

(廣瀬) 哲学の力で高みに連れて行っていただいて、それで見えてきたものを、いくつかの分野にエグゼキュートする。そうすると、それがビジネスになると同時に社会貢献にもなると、わたしも思っています。
 2つのものをつなぐ役割ということにおいては、わたしは、現実のニーズと哲学との間の、ある意味で「通訳」みたいな存在なのかなと思っています。
 以前、BGI(バークレイズ・グローバル・インベスターズ)というところで仕事をしていたときに、海外の運用者というのはほぼ全員が大学教授なんですが、運用戦略について話すときは数学で話をします。一方、わたしが日常的に接していたお客さまは日本の年金基金の責任者で、そこではお客さまのニーズを聞き出すんです。
 この2つをどのように結びつけるか。運用者とは数式を見ながら「お客さまはこういうリクエストをしていて、それについてはこの式のここがポイントになる」と説明します。そうすると運用者が「ここの考え方を変えればいいんだな」となってくれて。それで数式が変更されたら、今度はお客さまに対してそれを物語風に「これはこういうふうな仕組みになっていますから、お客さまのニーズに合致していますよ」と説明するわけです。

(出口) 「通訳」というのは、とても重要なことだと思います。昨今は、科学的な理論や知見と具体的な成果との間の橋渡しをする「トランスレーショナル・リサーチ(橋渡し研究)」が、特に医学や薬学の分野で重要視されるようになってきています。京都大学もそういった部門を作ろうということで、UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)と協定を締結して、現地にオンサイトラボを設置し、運営しています。
 将来は、廣瀬さんに、人文社会学のトランスレーショナル・リサーチのエキスパートとして、学界と社会をつなぐ役割を果たしていただければいいのではないでしょうか。


—社会をよくする研究を—

(出口) 近年、わたしも企業との共同研究をさせていただく機会が増えてきました。その場合、大学人、大学に属する研究者として重要なのは、目の前の企業のニーズに応えるだけでなく、つねに、その背後にある社会を見据えていくことだと考えています。
 企業のためのみになる研究は、企業内でやればよいのであって、わざわざ税金で運営されている大学で行う必要はありません。単に一企業の利益になるのみならず、それを通じて、ないしはそれを超えて、社会全体のためになる研究を行うことが、大学の研究者には求められているのです。企業の利益と社会の利益が「一気通貫」につながっていないと、企業のための学問になってしまいます。
 今回の共同研究も、単に投資会社が儲かるとか、投資家の資産が増えたり、ウェルビーングが向上するだけではなくて、社会全体のウェルビーイングを見据えた投資活動によって「社会がよくなる」ことにつながらなければならない。
 この1年半は、そのような視座を持ちつつ研究を行うことができたと思っていますので、今回の共同研究が、よいパラダイム、よい先行事例になればと考えています。

—「私」から「われわれ」へ—

(出口) また、わたしが、今回の共同研究にあたって強調したかったのは、「私」ではなく、「われわれ」の「しあわせ」を優先的に考えようということでした。「私」の「しあわせ」を「われわれ」の「しあわせ」から切り離して考えるのではなく、つねに「われわれ」の「しあわせ」の中で、考えていきましょう、ということです。単に、「「私」だけが「しあわせ」になれば、周りはどうでもいいという考えはよくない」というのみならず、そのような「われわれ」の「しあわせ」を置いてきぼりにした「私」の「しあわせ」などは、そもそも存在しえない、成立しえないという考えを打ち出そうと思っていたわけです。
 また「われわれ」の「しあわせ」を実現することは、「われわれ」を「よりよく」することでもある。言い換えると、社会が「よりよく」ならないと、「われわれ」、ひいては「わたし」も「しあわせ」になれない。このような「しあわせ」と「よさ」の間の正の相関関係を担保することも、わたしが目指したところでした。
 さらにわたしは、「しあわせ」とは単に快楽を享受することではなく、むしろ行動と結びつき、さらなる行動を駆動するものでなければならない、とも考えています。その意味で、「しあわせ」とは、「行動」、特に他者との「共同行動」が順調に回り出した際に感じられる「遂行順調感」に他ならないとも考えています。
 このような「しあわせ」の「われわれ化」や、「しあわせ」と「よさ」の方向性のチューニング、さらには「行動駆動的なしあわせ」といった考えは、今回の共同研究の成果の一つである「ライフ・インテグレータ尺度」を構築するにあたって、つねに、わたしの念頭にありました。
 その意味で、「ライフ・インテグレータ尺度」は、単に、人の「しあわせ」感を計り可視化する概念装置であるだけでなく、「しあわせ」や「ウェルビーイング」に関する、わたしなりの一定の提案を組み込んだフレームワークだと、わたしとしては考えています。


—よりよいコミュニケーションのために—

(廣瀬) 今回のわれわれの成果である「しあわせ」のファクター、「しあわせ」についてフレームワークを持つと、自分はこういう偏りを持った「しあわせ」なんだとか、あの人はこういう偏りを持った「しあわせ」なんだとかいうことがわかるようになるのではないかと思います。
 あの人はここに重きを置いているからこういう判断をするんだなとか、自分はここに重きを置いているからこういう判断するんだということがわかる。すると、おたがい理解しやすいかなと。
 おたがいを排斥するんじゃなくて、あーそういうものなんだと、そういったことを理解することじたいが、社会をよりよくするということにつながるんだろうなというふうに理解しています。

(出口) 「ライフ・インテグレータ尺度」は、地図ないしマトリックスとして、その中で自分は、今ここにいるんだという、自分の現在位置に気づくきっかけを与えるナビゲーターの役割も担いうるわけですよね。
 「ライフ・インテグレーター尺度」を用いて自分を測ることで、自分とは何かを知る、自分の「しあわせ」観を可視化して、それをあらためて内面化し、そしてそれを「われわれ」をよくする行動へとつなげていく。それと同時に、他者をもまた、その同じ地図の上に位置づけることで、他者を理解しつつ、自らとの違いをも見極め、それを尊重することもできる。今回の共同研究では、そのような概念的なツールを作ろうとしてきたわけですね。

(廣瀬) コミュニケーション・ツールを提案するということは、さきほども触れた通訳のツールを手に入れるということにもつながるかもしれません。「しあわせ」という言葉を多元的に捉えながら、多層的なフレームワークを提案することによって、われわれがおたがいを理解する、そのためのコミュニケーション・ツールができた。

(出口) まさにそうですね。目の前に他者が存在し、それが、自分とは違うけれども、自分と同様に尊重されるべき相手なのだという相互理解がないと、そもそもコミュニケーションは成立しない。
 今回は、そういったコミュニケーションを可能にするための一つのツールを作ることができたのではないかと思います。

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